2025年1月号 大和川の付け替え地を歩く

 

大阪市と堺市の境界に流れる大和川は江戸時代に作られた人工の河川です。御存知でしたか? 

旧の大和川は奈良盆地から生駒・金剛連山との間から大阪平野に流れ出て、生駒山脈に沿って北に玉串川、久宝寺川、平野川と三本の流れに分かれ、最後は大坂城の東で大川(淀川)に合流していました。川の流域は、高低差が少なく水はけが悪いため、少しの雨でも洪水に見舞われました。水害をなくすためには大和川を大阪平野に流れ出る地点から真っすぐ西に流すのが得策とする願いが幕府に何度も提出されていました。しかし幕府は大川(淀川)支流の安治川の開削工事などには手を付けたものの、旧大和川の治水対策は土手の手直しや植樹などで事足れりとしていました。 

ところが1704年(宝永元年)2月幕府は「大和川付け替え工事」を決定します。急な決定のもと、わずか8か月で堺と大阪の間を流れる大和川が作り上げられました。

(参考地図:柏原市立歴史資料館より)

今日の街歩きは、大和川が真西に替えられた地点、大阪府柏原市のJR西日本大和路線の高井田駅からスタートします。大和路線は大阪の難波・阿倍野あたりから奈良に移動するインバウンドの人たちに人気の路線です。昔は関西線と呼ばれて1889年(明治22年)開通した伝統のある鉄道です。 

JR天王寺駅から各駅停車で20分ほど、高井田駅に到着しました。ここはブドウ、河内ワインや古墳群で有名な柏原市です。山を背景に新しい家々が並んでいて、大都市の郊外の街という風景が広がっている地域です。  

大和川の付け替え地点は高井田駅のすぐ南側ですが、まずは北側の丘の「横穴公園」にある「柏原市立歴史資料館」に向かいます。この資料館は、古代から現代までの柏原市近辺の歴史研究・展示を進めている中で、大和川付け替え研究・啓蒙活動については中心的存在なのです。

柏原市立歴史資料館 

博物館は地味な建物ですが、大和川付け替えについての資料が充実しています。館内展示を見学したあと、坂道を下ると大和川の堤(右岸)に出ます。目の前に広がる川幅の広さに驚かされました。 

大和川の右岸から西方を見る 

大和川の右岸を川下に歩きます。大和川が大きく左に曲がり、西向きに流れを変えます。昔の大和川は、このカーブしているところから北に流れていたのです。川をせき止めて流れを変えた土手を「築留(つきどめ)」というのですが、ざっと見ても200mはありそうです。

旧大和川をせき止めた築留の底部には、もともとあった田畑へ水を引くため、三か所の「樋」(水門)が設けられました。上流の「一番樋」の場所はわからなくなっていますが、あとの二つは健在です。近代的な設備に作り替えられ、今も使われているのです。写真はその「二番樋」のあった場所に設けられた水門です。大和川の水はこの写真の水門を通り「長瀬川」となって北に向いて流れていきます。 

二番樋の水門 (取り入れ口)

水門の左手、土手の上に木が植わっているところに、1990年(平成2年)「大和川治水記念公園」が整備され、園内には市内に散在していた大和川付け替え工事関連の顕彰碑や銅像が集められています。 

中甚兵衛の銅像 

碑に刻まれている碑文には、私は判読できませんが、史実とは違う表現があることが最近の調査で指摘されているので注意が必要です。写真は「中甚兵衛」の銅像です。甚兵衛は農民ながら新田開発の申請から工事まで尽力した功労者です。 

土手を北側に下りましょう。公園の真下に二番樋の水の出口があります。

二番樋の水の出口 

少し西に歩くと、三番樋があります。二番樋と同じように近代的に作り替えられいて、ここから流れ出る水路は500mほど下流で長瀬川に合流します。 

三番樋の水の取り入れ口 

大和川の付け替え工事は、川底をできるだけ掘らずに高低差を作り、掘る必要がある場所から出た土で堤防を築くという工法を採用しました。平地に土手を築き、水をゆっくりと流すというわけです。短期間で新しい流れを作ったのは、この工法もさることながら、工事担当の各藩の「競争心」が働いたからとされています。 

工事の全長の半分、上流部を幕府が担当、残りは岸和田藩、三田藩、明石藩が分担しました。工事は「築留から堺の海まで御幣をつけた旗竿が等間隔に並べられ、号砲一発、四か所で同時に始まり、堤つくりはお祭り騒ぎで進められた」と伝えられています。その結果、川幅100間、堤は2.5~3間の高さの新しい大和川が誕生しました。 

大和川の土手を北にくだり、築留の三番樋からの水路に沿って歩きましょう。写真は三番樋からの流れと二番樋の流れとの合流地点です。 

二本の流れの合流点 

JRの踏切を渡ると長瀬川を挟んで両側に歩道が続きます。 

1698年(元禄11年)大川(淀川)から大阪湾に流れ出る木津川が開削されました。工事の目的は大坂西部(当時)の治水でしたが、それに伴って進められた新田開発が幕府の新しい収入源となりました。旧大和川の流域の水利工事も新田開発が目的だったようです。

三本の流れに整備された旧大和川の流域も豪商、寺社、農民寄り合いに譲渡され、新田開発が進められました。その一つが、現代にもその名を残す「鴻池新田」です。 

開発された新田には3年間の年貢免除が与えられました。しかし投資側からすると新田開発は、資金の回収期間が長く、利益も多いとは言えない事業でした。海運と蔵前を扱い、経営も順調だった鴻池の新田開発には「コメや野菜を作るのは地主のする仕事。なんとモノ好きな」と、周囲は冷ややかでした。鴻池は、大名貸の利率が下がり、貨幣も改鋳されるという経済状況では、新田開発投資に利ありと考えたようです。 新田ではコメ、畑では綿の生産が順調で、鴻池はさらに力を伸ばしました。

旧の大和川には、柏原からは大和や近辺の農産物を、大阪の天満からは醤油や酒などを運ぶ「柏原船」という水運業がありました。川の付け替えには「水路をつぶす恐れあり」と反対し、営業鑑札を返上する業者もありました。ところが新田開発で田畑の面積は4倍に増え、コメや野菜に加えて綿花も作られるようになり、残った業者をうるおしたのです。しかし柏原船の通る平野川は、年を追うごとに水量の減少や土砂の堆積が進み輸送が難しくなってきます。20隻ほどあった柏原船は、鉄道の開通によって明治の末に、その姿を消したのでした。 

藤井寺市は新しい大和川が通された地域にあります。市の歴史調査では、川で削られた面積は合計で43ha(甲子園球場11個分)に及び、立ち退きを命じられた地域農民には代替え地が与えられたものの、広さが足らず、地味もよくないところでは離農者が多かったとの報告があります。また市内には、川を挟んで同じ町名の町が二つあります。大和川が村を分断した名残で、境界線や行政区分が現代まで引き継がれています。困るのは小学の通学区分です。川を挟んで通学のためのバスを用意したり、隣の八尾市の学校に「越境入学」を認めるという対応をしているそうです。 町村の境界線については微妙な問題で、現在まで解決されていない場所があることがわかりました。

大阪の住吉神社の神輿が大和川を渡るという儀式があります。これは奇祭でもなんでもなく、住吉さん(大阪の人はこう呼びます)の社領が堺まで及んでいて、神輿が堺まで練り歩くのが当たり前だったのです。

現在のJR我孫子駅の東南に依羅(よさみ)池という、ジュンサイなどを産する池があり、新大和川はこの池を東西に横切るように通りました。この地域は土地の所有権が複雑だったこと、農耕に向かない土地、労働力の市中への流出などで、なんと1960年代までは昔の風景が残っていたそうです。

いずれにしても、江戸時代の大工事が現在まで影響を及ぼしていることを、初めて知った次第です。 

長瀬川の両側には「アクアロード」と名付けられた歩道がJR柏原駅から志紀駅まで続いています。しかし歩いた日は大変な暑さだったのでJR柏原駅でおしまいにしました。 

駅の改札口に「ぶどう狩り案内」のテーブルが置かれていて、法被姿のおじさんが家族連れに農園を紹介していました。  昔懐かしい客車の匂い(タール?)がする緑色の各駅停車に揺られながら天王寺駅に戻りました。

(文と写真:天野郡寿   神戸大学名誉教授)