2022年4月号 中之島あたり Part2

 

天気の良い今日は中之島公園を歩くことにしました。市役所と淀屋橋の北詰めから東に向かってスタートです。左に市役所、中之島図書館、大阪市中央公会堂が並んでいます。ネオ・バロック建築(1904年 明治37年竣工)の中之島図書館と隣のレンガつくりのネオ・ルネッサンス様式の中央公会堂(1918年 大正7年竣工)は、いずれも国の重要文化財に指定されています。

今回はいつも何となく通り過ぎる橋に注目しよう。まず右手の土佐堀川に架るのが「栴檀木橋」(せんだんのきばし)です。

中之島図書館

大阪市中央公会堂

「栴檀木橋」は江戸時代の絵地図には必ず書かれているほどよく知られた橋です。当時、淀屋橋は今よりも西にあったので、中央公会堂辺りにある蔵屋敷に行くための必要な個人の力で作られた町橋と記録されています。1885年(明治18年)の浪速の街を襲った大洪水でこの橋も流されましたがすぐには再建されませんでした。大江橋や淀屋橋のかかる御堂筋が幹線道路になっていたからです。

中之島図書館前が公園広場だった明治末の写真が残っています。その時には市役所庁舎はまだ建っていません。大正時代に入って公園作りが本格化し公会堂に向かう橋として、木々の植わった新しい「栴檀木橋」が造られました。「栴檀木橋」の名前の由来について、橋に置かれた記念碑には「橋筋に栴檀の木が植わっていた」と書かれていますが、はっきりしません。

南側から見た栴檀木橋

歩道に「植桝」(大型の植木鉢)を設置し、橋げたや欄干の色も考慮された現在の橋は昭和60年に完成したものです。

土佐堀川沿いの遊歩道を上流に向かって歩くと目の前が「難波橋」です。橋の南に五代友厚像が見えます。東の渋沢、西の五代と言われた関西の経済界の立役者が今でも大阪を見守っているようです。

難波橋と五代友厚像

難波の橋歩道

難波橋は飛鳥奈良時代の僧行基が架けたという伝説のある古い橋です。江戸初期にはこの橋と栴檀の木橋の間が中之島の上流の端でした。橋の中ほどの橋脚が中洲に建っている構造は昔から変わっていないそうです。

難波橋が最初に鉄橋化されたのは明治9年です。橋脚には鉄を使ったものの、鉄材が高価な輸入品だったので、橋の路面は木の板張りだったそうです。現在の橋(全長189.7m、幅21.8m)は1915年(大正4年)架けられました。歩道の幅も広くゆったりと散策できます。

口を開いたライオン像

難波橋の橋梁にはパリのセーヌ川の橋を参考にして作られたライオン像が飾られています。この橋が完成する前年の大正3年、東京三越にライオン像がおかれています。ライオン像を選んだのは東京への対抗意識があったからかどうかは記録に残っていません。

欄干の南北にそれぞれ一対座っているライオンをよく見ると阿吽の形相をしていて、日本風にアレンジされていることがわかります。

難波橋を降りるとバラ園です。申し遅れましたが中之島公園はバラ園も含めてペットOK です。

朱鷺色の花と「ばらぞの橋」

よく手入れされたバラ園に、おとぎの国にあるような「ばらぞの橋」が架かっています。橋のたもとには朱鷺色の「プリンセスミチコ」、そして薄い赤の「プリンセスアイコ」が咲いていました。見落とさないでください。「ヨハンシュトラウス」や「シャルルドゴール」と名付けられたバラもあり、名札を見ながら歩くのも楽しいと思います。

ばらぞの橋を渡り阪神高速環状線の下をくぐると芝生の広場に出ます。ここには「立ち入り禁止」などという無粋な看板がありません。寝そべっている人、弁当を広げる人など、ゆったりできるスペースです。

芝生の広場

芝生を過ぎると「天神橋」に差し掛かります。この橋は1594年天満宮開所支配人の大村由己が幕府の支援を断り自費で完成させたと伝えられています。その後幕府管理の公儀の橋になりますが、当時の木製の橋は補修が大変で、牛馬や車の通行そして露店を出すなどは橋を傷めるために禁止されていたそうです。

明治になって高麗橋や心斎橋が鉄橋化されます。しかし天神橋などの長い橋はなかなか手が付けられませんでした。輸入品の鉄材が大量に必要だからです。

1885年(明治18年)に中ノ島近辺が家の軒まで水がくるほどの洪水に見舞われ、天神橋・天満橋が流されてしまいました。どちらの橋も鉄橋で再建されましたが、橋の路面はいずれも木の板でした。現在の3連アーチ橋は1934年(昭和9年)に完成しました。ちなみに天神橋219.7mは中之島では番長い橋です。

天神橋をくぐると中之島公園の東の端「剣先地区」に出ます。「剣先」となったのは、川に

向かって進む船のイメージからだと思われます。その先端に噴水があって30分毎に水が噴

き出します。夜はライトアップされていて、夏の夜には必見の風景です。

天神橋と剣先地区

剣先の噴水

噴水を見たら螺旋スロープを上り、天神橋の歩道に出ます。そして堂島川の北側の遊歩道を歩きます。

天神橋に登る螺旋スロープ

なぜか立派な天神橋の看板

堂島川北遊歩道

左に中之島の緑を見ながら、レンガの道を「鉾流橋」まで歩きます。この橋は、その名前からかなり古のではないかと思ったのですが、1918年(大正7年)に最初の橋が木造で架橋され、現在の橋は1929年(昭和4年)に完成しました。この橋の北詰で天神祭の幕開けの儀式「鉾流神事」が行われるところからの命名だそうです。鉾流橋のデザインは、中之島の景観調和のために栴檀木橋と同じように「植桝」が設けられていますが、木は植えられていません。余計なことですがこの橋「ほこながし橋」が正しい呼び名です。

鉾流橋の植桝

鉾流神事の場所

「鉾流神事」は鳥居の立っている空き地で行われます。この神事が始まったのは951年で、天満宮の近くから神鉾を流しその流れ着いたところを祭事の場所とし「禊」をする場所です。鉾の流れ着いた場所は豊作間違いなしと信じられていたその昔、鉾の行方が騒動を引き起こしたこともあったそうです。

江戸期に入り下流の「御旅所」で儀式が行われるようになって、鉾を流す儀式がなくなります。昭和5年、前年に大阪城の再建があったからでしょうか、町衆の要望と食満南北(けまなんぼく、歌舞伎役者、歌舞伎作家1957年没)の提唱で「鉾流神事」が復活します。しかし古文書にあるように、流れる鉾の後を神童・神職の船や楽人の船が追尾するということはできず、近くを周遊することを余儀なくされます。橋げたが低く船がくぐれなかったからです。伝統行事も時代に合わせて変わるのは仕方がないことですが、少しさびしい気がします。

鳥居と天満警察署

2017年に鳥居の北側に天満警察署が建ちました。「天神さんえらいモンが建ちましたなー。気の毒に。府警ももうちょっと考えてーナ」とつぶやく人(私)がいました。

鉾流橋から再び川岸に降りると、木製のテラスが水晶橋まで続いていて、テーブルと椅子が並んでます。右手にあるレストランが経営する場所だと思ったのですが、ここは大阪府が手掛けた「西天満若松浜公園」です。

西天満若松浜公園

公園の表札

レストランで何か注文しないといけないのかと思ったら「椅子などには自由に座ってよい」と看板に書かれていました。公営でこんなオシャレな場所がつくられたのは驚きです。

水晶橋

水晶橋は歩行者専用

水晶橋はもともと川の浄化のための可動堰でした。1929年(昭和4年)建設です。水質改善はそんな昔から進められていたのですね。1982年に淀川に大型の水門が完成して市内に6か所あった可動堰は取り除かれました。ところがこの水晶橋と土佐堀川に架る「錦橋」は中之島の景観保護のために残されたのです。ライトアップされている夜の水晶橋はインスタ映え保障付きです。

天神橋からのレンガの遊歩道は、もちろん車の心配などありませんが、家やマンションが近く、中之島を歩いた時のような開放感は少ないようです。

水晶橋の階段を昇り緑の多い市役所と図書館の間に戻ると、緑の多さと空間の広さにホッとします。「中之島がもう一回り広いとセーヌ川に迫るんやけどなー」と思いながら、6000歩の中之島公園あるきが終了しました。

(文と写真:天野郡寿   神戸大学名誉教授)