中之島あたり 2022年1月号

 

今日は大阪の中心中之島あたりを歩いてみましょう。ありふれたコースですが、新しい発見があること請け合います。

中ノ島は、皆様ご存じのように北は堂島川、南は土佐堀川にはさまれた中州です。周りには高層ビルが立ち並んでいますが、川沿いには遊歩道がつくられていて、交差点以外は車を気にせず歩けるようになっています。

御堂筋を挟んで東に大阪市役所、西に日本銀行大阪支店があります。この辺りは大阪らしくない空間の広さです。北の大江橋、南の淀屋橋はいずれも国の重要文化財に指定されている1930年代建設のコンクリートの橋です。(日本銀行大阪支店は内部見学ができます。要申し込み)

大阪市役所(1986年完成)

水晶橋 (1929年完成)

土佐堀川に架っている淀屋橋は、橋の南西に店を構えていた米問屋「淀屋」が自社の運搬用にかけた橋です。淀屋はあったのでしょうか、その後元禄時代に(1697年)取引の場は西北の堂島に移ったのですが、橋名はそのまま使われていました。梅田からナンバまで御堂筋がつくられた時、橋は昔の位置からかなり動いたのですが、橋名前は残ったのです。堂島川の大江橋のあるあたりはその昔「大江の浦」と呼ばれる入江でした。上町台地の北の端のこの辺が船付き場だったのかもしれません。歌人大友家持の「玉藻刈る大江の浦の浦風につつじの花は散りはべるなり」の歌が残っている、よく知られた場所だったそうです。

大阪中之島には、石段のある橋が2本かかっています。堂島川の水晶橋と土佐堀川の錦橋です。この橋、元は水量調整のための可動堰で車や人が渡る橋ではありませんでした。

水晶橋は1929年(昭和4年)に河川浄化を目的として建設されたゲートなのです。水晶橋の北側は裁判所合同庁舎です。当時の報告書はこの堰の建設目的を「川筋の水位の低下するを防ぎ、各支川に流速を與へ所の水を清浄にする」とするだけではなく「大阪市役所と堂ビルとの間に清楚な姿を現して(略)都市工事の第一先例」と書いています。古い写真を見ると、橋の形は現在のそれとほとんど同じです。都会の景観を考え水門の装置を見えないようにデザインしたのでしょう。1982年に水門としての役目は終了し、機械装置は取り外され、人の利用できる橋に改装され「水晶橋」と命名されました。最近はライトアップがされて夜の観光名所になっています。

中之島には川沿いに島を一周できる遊歩道があります。ところどころで信号を渡るのですが、並木の続く都会の中とは思えない快適な散歩道になっています。市役所を回って淀屋橋北詰めを西に向かいます。

市役所を背に淀屋橋を左に見て御堂筋をわたります。右手に日本銀行大阪支店の建物を見ながら彫刻の置かれている遊歩道を進みます。大阪の日銀は東京のそれに遅れること2か月で開業しました(当時は中央今橋)。往時の大阪の経済力の強さが推し量れますね。

土佐堀川沿いの彫刻が並ぶ遊歩道を西に歩きましょう。

土佐堀川右岸遊歩道

川向うに住友ビルを見ながら阪神高速環状線をくぐります。対岸には南に伸びる阪神高速の橋脚が見えます。そこは西横堀川でした。フェスティバルホールのあるビル(正式名中之島フェスティバルタワー198.96m大阪では8番目の高さ。ちなみに中之島フェスティバルタワー・ウエストは199.27m、高さは大阪で7番目)まで来ると南側に石段のついた「錦橋」があります。これが水晶橋の2年後に土佐堀川に建設された可動堰です。これで、中之島の南北に水量調整の装置が完備されたのです。もちろん、当時は水晶橋と同様この橋にも名前はありませんでした。

錦橋 (1931年完成)

1930年代に同じような可動堰を兼ねた橋が市内に6か所もあったそうです。今はこの橋と、
水晶橋が歩行者用に残っているだけだそうです。70年代末に淀川大堰ができて、そして市内の河川が埋め立てられ可動堰の必要がなくなったのです。長さ55mと「水晶橋」より少し短く1978年に堰として役目を終え、改修されて「錦橋」と名付けられました。橋にはタイルに焼き付けた錦絵が飾られています。大阪市の治水は見えないところで着実に進んでいるのだと思います。
学生の頃、中之島の図書館に行くために「水晶橋」を利用していました。当時は、石段のついたかなりユニークな構造なのに、その由来など考えたこともありませでした。
「橋を見る」という趣味があることを聞いたことがあります。英語で”Bridges”というそう
です(単数はトランプゲームです)。変わった趣味もあるもんだと思っていましたが、二の橋を訪れた今回、「それもありやなー」思いました。

(文と写真:天野郡寿   神戸大学名誉教授)