2025年10月号 千日前通から「なんば広場」まで
今日は御堂筋の千日前通の交差点から高島屋前を東側にまわり、南海線なんば駅をぐるりと一周するコースを歩きます。
千日前の地名の由来は、法善寺と隣の竹林寺(後に天王寺区に移転)で千日念仏が唱えられていたところからとされています。

(本日のスタート地点 高架は阪神高速)
江戸時代の千日前は、市中引き回しされた罪人の処刑場、そして焼き場のある大きな墓地でした。明治になって大阪市は墓地を南の阿倍野の方に移し、千日前の市街地化を進めました。しかし墓地の跡地はなかなか売れません。そこで一定の広さ以上の購入には土地を清める「灰処理代」をつけたと伝えられています。1885年(明治18年)日本橋筋に市電が敷かれ、千日前は道頓堀とつながる繁華街に変身していきました。
1912年(明治45年)戎橋筋から堺筋の東高津神社や生國魂神社まで、5000戸を焼き尽くす「ミナミの大火事」が発生しました。貸座敷(妓楼)「遊楽館」から出火およそ10時間も燃えたそうです。火災の後の街の整備事業で、幅12間の千日前通が、上本町六丁目から西の桜川まで通されたのです。
御堂筋の東側の歩道を南に進みます。千日前通交差点を渡ると、目の前に高島屋が見えてきます。ここでちょっと西側歩道に目を移してください。下部は日本の城郭建築にみられる唐破風屋根、上部は白いホテル部分、その二つがガラス部分でつながっている(説明がむつかしい)高層ビルがあります。これは2019年に開業した新しいホテルです。以前ここにあった「新歌舞伎座」のデザインを新しいホテル正面に残したのです。デザイナーは隈研吾です。

(元「新歌舞伎座」)
「新歌舞伎座は上六にあるのでは?」と思われると思います。そうです。新歌舞伎座は2009年に閉鎖され、そのバトンを受け継ぐ形で、次の年に上六の「新歌舞伎座」がオープンしたのです。
大阪の歌舞伎座の変遷は少々複雑です。最初の歌舞伎座は桜橋に建てられたそうで、その後千日前に移ります。現在<ビッグカメラ>がある場所です。戦後、上方歌舞伎は経営母体の移動や役者の離反などがあり衰退し、歌舞伎公演をしていた千日前の劇場は1958年(昭和33年)に閉館され、建物は総合娯楽センターに改装されてしまいます。同年の10月に御堂筋に開場したのが「新歌舞伎座」でした。そのデザインに歌舞伎の灯を絶やしてはいけないという強い思いが感じられます。しかし新歌舞伎座は、回り舞台がないなどの劇場施設の貧弱さや公演の役者がそろわないなどの問題を抱えてのスタートでした。新歌舞伎座は看板の歌舞伎ではなく、三波春夫をはじめとする歌手やタレントのショーなど団体客向けの営業収入が期待できる公演が営業の中心となっていきました。
2009年(平成21年)に建物の老朽化を理由に閉鎖された新歌舞伎座、その跡地の買い手がなかなか決まりませんでした。2012年にやっと冠婚葬祭会社への売却が決定し、2015年から解体が開始され、2019年ホテルが誕生したのです。
大阪の歌舞伎の歴史はあまり元気がないように思います。ビルに残された歌舞伎座デザインをみても歌舞伎とのつながりを感じる人は少ないかもしれません。とにかくこのホテルがが新しい御堂筋のシンボルになることを祈るばかりです。

(なんば 高島屋)
南前方に高島屋が見えます。高島屋は南海線のターミナル駅にありますが、阪急百貨店や近鉄百貨店のような電鉄経営の百貨店ではありません。
南海電鉄は1885年(明治18年)阪堺鉄道として開業しました。南海電鉄の利用客数は年々伸びて駅舎ビルの建て替えも進みました。堺筋にあった高島屋が、1932年(昭和7年)に新設した3代目の駅ビルにテナントとして招かれたのです。開店と同時に御堂筋が開通しました。新しいビル、道路そして百貨店と、街の発展の条件が揃ったということでしょうか。

(なんば広場)
高島屋の前の「なんば広場」に来ました。昔は客待ちのタクシーなどでいつも渋滞する百貨店前の道路が、広場に作り替えられました。
「なんば広場」は空き地の少ないミナミに誕生した大きな空間です。広場には自由に使えるテーブルや椅子が置かれています。
広場には二体の像が建てられています。「朗風」と書かれた白い像は「都市美の実現」を願い、1953年(昭和28年)洋画家有志の寄付により設置されたものです。プレートには「原型・彫刻家吉田久継」「施工・向山峡路」そして賛同者には荻須光徳や小磯良平など著名な美術家の名前が並んでいます。もう一つの像は、日高正法作の「平和の塔・女神像」です。この像は新憲法発布3周年を記念し1950年(昭和25年)に大阪市の中心と目される心斎橋大丸のそばに「平和の塔」が建てられました。その塔の上部に取り付けられていたのがこの女神像です。平和の塔は1973年(昭和48年)市街地整備で撤去され、上部の女神像は戎橋の北詰に移設されました。
なんば広場の完成は、この女神像にとっては幸運でした。2004年(平成16年)戎橋が改装された時、この像は移設場所が見つからず、倉庫で保管されていたからです。市民の寄付で造られた平和を願うこの像は、今回なんば広場が永住の地となるようです。

(「朗風」)

(平和の塔・女神像)
広場の東側には「戎橋筋」と「ナンバ南海通」への入り口があります。初めてなんば広場を訪れた友人は「入り口が商店街につながっているとはとても思えない。いかにも大阪らしい風景」と言っていました。

3つの入り口 わかります?
一つは、あの有名な豚まんの本店がある戎橋筋への入り口です。もう一つがなんばグランド花月への「なんば南海通」です。どちらも通りに入ったとたんにケバケバの看板と人の洪水に巻き込まれます。
さらにもう一つ入り口ができています。そこを入るとコーヒー店と家電量販店があり、裏路地へ抜けることもできます。ここは大阪市立精華小学校の跡地です。明治6年創立のこの学校は大阪で一番古い学校でしたが、生徒数減少のために1995年に閉校されました。
小学生の時2度ほどこの学校に来たことを思い出しました。何かの表彰式に呼ばれたのだと思います。交通至便なところにあるこの学校は市の行事に使われていたようです。その頃は「優等生」の私でした。もう半世紀以上前の話です。

(高島屋東側の道路)
高島屋の東側は「なんさん通」が工事中でした。ここも車道がなくなり歩行者広場になります。この文章が出る頃には工事は終了していると思います。 ここから「ナンバCITY」「なんばPARKS」に行きます。その様子は次号で!
(文と写真:天野郡寿 神戸大学名誉教授)






































































